新年、あけましておめでとうございます。
 
2025年1月6日(月)に 修正会 (しゅしょうえ)を勤修いたしました。
お勤めを行ったのち、福田学長が年頭随想をお話ししました。

修正会1

修正会3

修正会2

 

以下、福田学長の年頭随想です。

 

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2025年 年頭随想   福田 琢

 新年明けましておめでとうございます。みなさん年末年始はどのように過ごされましたか? 

 さて、年末年始の仏教行事として有名なのは「除夜会」(じょやえ)と「修正会」(しゅしょうえ)ですが、本日は修正会です。除夜会のほうは「除夜の鐘」が有名です。大晦日の夜、私たちが抱えている煩悩の数だけ梵鐘(ぼんしょう)を撞(つ)きます。鐘を叩けば煩悩がなくなるというわけでもありません。結局は変わらないのですが、それでも過去一年間の自分と向き合い、自分が様々な愚かさを引き摺った存在であることを自覚しつつ、新しい年に向かおうという行事です。ただこれが、いつどのように成立したのか、おそらく中国ではありましょうが、詳しいことはよく分かっていません。

 一方、いま行っている「修正会」とはそもそも何かというと、これも諸説ありますが、ひとつは「悔過会」(けかえ)といって、新年を迎えるにあたり、過去の過ちを悔い改める法要に由来する言われています。南北朝時代の中国で、皇帝が人民に替わって罪を懺悔(さんげ)して、新しく始まる年が平安であるように願ったのが起源だそうです。だから本日は、学長が昨年の失敗を懺悔して、今年の同朋大学の繁栄を願うべきかもしれません。しかし悔過の儀式は日本に入ると、おのれの悪業を告白・懺悔するというよりも、罪や災厄を祓ってもらう厄除けの意味合いが強くなってまいりますので、ここは今年の大学を、どんなふうにますます元気にしようか、という話をしたいと思います。同朋大学のイメージを、もっと広く世間に浸透させるために、できれば教職員だけでなく学生のみなさんにも協力していただきたい。中にはこの春には御卒業される方々もおられますけれども、4月以降も同窓生として、大学のイメージづくりを応援していっていただければと願っています。

 私がこの同朋大学の専任講師になったのは1995年4月でしたが、その5年後の2000年、同朋大学は4年生大学になって50周年という記念の年を迎え、2001年には、始まりとなる真宗専門学校の創立から数えて創立80周年となりました。世界中が、20世紀から21世紀への転換の年としてにぎやかで、同朋大学でも新たな時代に向けて「いのちの村」宣言を行いました。それから25年経ちましたが、この宣言文は現在もほとんど古びていないまま、大学ホームページに全文掲載されております。

 どんなことが書いてあるか、「いのちの村」とは何かというと、都市という場所では、対面でコミュニケーションの機会がどんどん減っていきます。下手すれば隣同士で顔も名前も知らない。逆に昔ながらの村では、だいたい村に住んでいるのが誰でどんな人か、お互いに顔を見て知っている。私たちはそういう顔の見える世界、新しい時代の村をめざそう、という宣言文です。

 私たちが直接お互いに触れ、向き合っているこの現実、アクチュアルなリアリティの世界に対して、これからは仮想現実、バーチャルなリアリティの世界がどんどん増えていく、という21世紀の動向を踏まえた上で、同朋大学はバーチャルなリアリティも有効に取り入れながら、それを「都市」ではなくて「村」として組織し、展開したい。たとえばインターネットやデジタル技術は本来、人と人との自由なコミュニケーションの可能性を広げてくれるはずのものですが、いずれ分断と疎外をもたらすだろう、そのような空間的な関係性を予見して、それを「都市」と呼んでいます。実際、最近のSNSや動画サイトは、そういう意味では確かに都市化されているようにも見えます。フォロワー数が高いインフルエンサーは高級タワーマンションの上級民で、匿名コメント欄で日頃の憂さ晴らしをする人々は下層民といった具合です。そんなネット時代の新しい差別や暴力を生むことなく、生身で会話するのと同じように、ひとりひとりが互いの顔を見て、そして発信者である自分自身を実像として実感できるネットワークを展開していきたい、そういうことを「いのちの村」ということばで表現しています。

 先ほど言いましたように、この「いのちの村宣言」は現在も大学ホームページに全文掲載されております。しかし「社会・地域関連」という項目の下の「いのちの村」という項目の下の「いのちの村の理念」というところまで辿り着かないと見つからないので、ほとんどの方は読んでおられないのではないでしょうか。

 現在の大学公式サイトは、色々と欲しい情報が手に入りにくいのではないか。そう思っていたところ、入試広報センターのみなさんが、新年度から同朋大学ホームページを全面リニューアルするということです。もちろん私も大賛成なのですが、先月というか作年末、その新しい大学ホームページの基本の色が話題になりました。

 現在、同朋大学で用いられているロゴマークは「いのちの村宣言」を行なった2001年に公表されたものです。人々が輪になって手を広げている姿を、草花が開いたようなイメージで表現したデザインです。同時に公開された学園のシンボルマーク(これは現在使われておりません)も、菩提樹をイメージしたものでした。そもそも「村」という言葉から多くの人々が連想するのは緑色です。正式に決定していたわけではないと思いますが、そんなわけで当時の同朋大学の基本カラーは緑でした。私たち同朋大学の教職員が使っている学園の名刺も、緑色を基調としたデザインのものとなり、それが現在まで用いられています。

 ただ、現在のホームページを見ますと、「同朋大学」の文字は青地に白抜きで書かれております。70周年記念ポスターもそうです。この成徳館の1階ロビーに掲げてありますが、2020年に本学が大学昇格70周年を迎えたときに制作したものです。当時は新型コロナ感染症拡大の影響で、大掛かりな記念式典も行えず、せめて記念のポスターを、ということで、松田前学長が、名古屋造形大学の伊東豊嗣先生(現学長・同朋学園理事長)に依頼して制作していただいたものです。青い空に「七十」という数字が、鳥が羽ばたくような形でくりぬかれています。20年が過ぎると、いつのまにか同朋大学のイメージカラーは青ということになっていました。

 入試広報センターのみなさんが現在進めている新しいホームページのデザインも、基本の色は青をベースにしているということだったので、ためしに昔ながらの緑を基調にしたものも、同じデザインで作ってもらいました。それで二つを較べて、学部長さんや学務部長さんに感想を聞くと、やはりみなさん、青がいいという意見でした。ただ、何となく緑だったのが、いつの間にか青になりました、ではなくて、今回サイトをリニューアルするのですから、この機会に「なぜ青なのか」をしっかり説明しよう、ということになりました。多くの大学は「スクール・カラー」とか「ビジュアル・アイデンティティ」とか言って、なぜ自分たちはこの色を大学の色として選んだのか、ウェブサイト上できちんと説明しています。でも同朋大学は、いまのところ、「いのちの村」と盛んに言っていたころは緑が主だったのが、最近はいつの間にか青になってしまっただけで、特に説明らしい説明もないのです。

 もちろん、自然にそうなったという点も、実は大切です。理屈ではなく感覚であっても、教職員の意見がばらばらにならず、今の同朋大学には青が似合うと一致して思うからには、言葉になっていなくても、それなりに共通感覚というか、理由があるのです。その意味を言葉にするのは、まあ私の仕事なので、この年末年始は「なぜ同朋大学には紫でも赤でも緑でもなく青が似合う(とみんなが思う)のか」ということを考えていました。

 ちなみに生成AIに「青い色にはどんな意味がありますか?」と質問すると「知性・集中」「誠実・信頼」「平和・安らぎ」「生命・自然」などなどの答えが返ってきます。中でもよく言われるのが「青は知性の色」ということです。いまの大学のロゴマークも、草が広がって伸びるように人が手を広げている、その間にぽつんと人間の頭があって、それは知性の青で描かれています。

 もうひとつ「平和・安らぎの色」というイメージも広く浸透しているようです。「青は安らぎや癒やしの色」ということも、確かによく聞きます。こちらは、お経のなかに出てくる「瑠璃」という宝石がイメージにぴったり合うように、私には思えます。瑠璃はサンスクリット(古代インド語)でヴァイドゥールヤ(vaidūlya)という青い石で、アクアマリン、サファイア、エメラルドなど諸説ありましたが、今日ではラピスラズリを指すという説が最も有力です。本学の仏教学科や別科のみなさんは、浄土三部経のなかによく登場するので御存知ではないかと思いますが、仏教のお経が様々あるなかでも、瑠璃のイメージが最も鮮やかな印象を残すのは『薬師経』です。薬師如来という仏様の出てくるお経です。その癒やしの実践を伴う知性の象徴が、瑠璃の色です。

  薬師如来については、別科や仏教学科以外の方も、どこかで仏像を見たりしているのではないでしょうか。昔は医者が薬を調合して患者に与えていたから、「薬師」(薬の先生)とはお医者様のことです。薬師如来とは、医者のように人々を癒やす仏様という意味です。その如来が薬師瑠璃光如来と呼ばれています。瑠璃、ラピスラズリの青い光で輝いている仏様です。なぜかといえば、薬師如来は私たちから見て遠い東の彼方の「仏の国」(仏国土)にいらっしゃるというのですが、その国は大地が瑠璃で出来ているというのです。東方浄瑠璃(じょうるり)世界と言われています。

 薬師如来はかつて修行者だったとき、自分が仏様になるときにはこのような世界を実現したい、という12の誓願(誓い、願い)を立てたといいます。「薬師の十二願」と言いますが、それらをざっと見ていると「障がい者が健常者と等しく生活できる社会にしたい」(第6願)とか「病気で苦しんでいて頼れる医者も身寄りもない人に薬と生活必需品を与えたい」(第7願)とか、「男女格差をなくしたい」(第8願)とか、「貧困のせいで悪事に走りかけた人の生活を保護してあげたい」(第11願)とか、「着る服もない人に綺麗な服を与えたい」(第12願)というように、どちらかといえば仏教学科よりも社会福祉学科の授業のテーマになるような誓いが並んでいます。東の彼方の浄瑠璃世界にいる、薬師瑠璃光如来という仏様の名前を聞いた人は、ラピスラズリの光に導かれ、癒やされて、そういう生活に密着した、現実的な苦しみから解放されるというんですね。特に我が国では「薬師」という名前と「人々の病気を治したい」という第7願の内容(除病安楽)が強く結びついて、薬師といえば病気治癒専門の仏様みたいな扱いになってしまいました。飛鳥時代に天武天皇が発病したとき、川原寺で『薬師経』の読誦があったと『日本書紀』(巻29)に書かれています。それからは歴代天皇が危篤に陥るたびに、お坊さんが宮中に招かれて『薬師経』が読まれています。

 ただ、薬師如来の本当の願いというのは、その先にあります。経典の最後のほうで、薬師如来はこんなことを言います「僧侶にせよ、一般の信者にせよ、男にせよ、女にせよ、かなうならば戒律(八分の斎戒)を守って正しい生活を守り、善行を積んで西にある極楽世界の阿弥陀仏のもとへ往生し、正しい教えを聞きたいと願っておりながら、かなわない人々がいます。そういう人々であっても、薬師瑠璃光如来の名号を聞けば、命尽きるとき、八人の菩薩が来迎して、それらの人々を不思議な力で導き、極楽浄土へ進む行き先を示します。そしてその人々は、様々な色の蓮華のうえに忽然と生まれるのです」(玄奘訳『薬師瑠璃光如来本願功徳経』趣意, 大正No.450, vol. 14, 406b)。

 これもちょっと難しいかも知れませんが、こういうことです。阿弥陀如来という仏様は立派な仏様で「戦争や差別や貧困のない、誰もが救われる世界を作ろう」と願われています。だから「それは素晴らしい」と思って、正しい生活を守って「南無阿弥陀仏」ってお念仏するのが仏教徒の正しい反応かも知れない。でも、お坊さんであっても一般の信者であっても、やはり自分や身の回りの人々に災いや不幸が降りかかれば、世界全体の幸せなんて考えていられないですよね。それでもいいんだ、って薬師如来は言うわけです。そういう人は、いったん東の浄瑠璃世界に私が預かります。病気で苦しんでいる人には薬を与えます。飢えている人には食べ物を与えます。それから西の極楽世界にお届けしますから、大丈夫です。人間は身の回りの悩み苦しみに囚われやすい生きもので、それを解決しないと先へ進めない、もっと大きな課題に向かっていけないのは当然のことです。そのために私がいます。どうすれば差別や戦争や貧困を生まない世界を実現できるのか、という大きなテーマをいっしょに考えるのは、西の極楽世界にいってからです。阿弥陀如来にお任せしております。そういうふうに言っておられます。仏教のお経には様々な仏様が出てまいりますが、こんなふうに、自分自身が仏なのに、仕事を限定して、自分以外の仏のサポート役に徹する仏様は、そんなにいません。ユニークな存在です。というか、この点をよく理解しておかないと、薬師如来というのは、ただ目先の生活上の困難を解決する現世利益の神様と変わらないことになってしまいます。

 昨年、心理学専攻の立ち上げにちなんで、社会福祉学科の新しいキービジュアルを作っていただきました。雨が降っているなか、女の子がこちらに向かって傘を差し出していて、「手を差しのべる人になろう」というコピーがつけられています。傘を差し出す女の子の背景では、雨の向こうに青空が広がっています。日常の生活で誰かが困っているとき、できる支援をしてあげることは大切です。でもそこがゴールなのではなくて、私たちの学びはそこから始まります。その向こうには、もっと理想の社会、本当に人と人とが信頼しあえる世界はどうすれば実現するのか、という課題が見えてくる。そして支援する側もされる側も、その豊かな理想に向かって共に歩んでいける。そういう感覚を本学の学生の皆さんならどこかで経験されているのではないでしょうか。

 仏教には独特の宇宙観があって、私たちの見上げる空が青いのも、これも瑠璃の色だそうです。インド仏教の世界観では、宇宙の中心には須弥山という巨大な山がそびえていることになっているのですが、この山は東西南北の四面が、金・銀・瑠璃・水晶とそれぞれ異なる鉱物で出来ており、私たちがいま住んでいる世界は須弥山から見て南側にあって、須弥山の南側の面は瑠璃でできているので、太陽の光を受けた瑠璃の照り返しで、私たちの空は青い、というふうに説明されています。

 このお正月休みはそういうことをとりとめもなく考えていました。同朋大学のスクールカラーは青で、その青は、現実の日常世界で悩みや困難を抱えているもの同士、手を差しのべ扶け合うことを促す癒やしの色であり、そして空を見上げれば、そこにはもっと豊かな、あらゆる人々がつながりあえる世界が待っていることを示す連帯の色であり、そういう世界の実現を共に考えてゆくための知性の色で、仏教的に言えば瑠璃の色です。だいたいこんな考え方を、もう少しきちんと整理して、同朋大学の今後のビジュアル展開の柱となるコンセプトを作りたいと思います。そしてホームページのリニューアル後は、いまのロゴマークも更新したいと思います。「いのちの村宣言」以来25年間使ってきたロゴですが、イメージカラーが緑から青になれば、当然それにふさわしいデザインも必要です。

 ともかく、そういうかたちで、2025年も同朋大学の存在意義を世界に知ってもらうために様々なチャレンジをして参りたいと思います。学生の皆さんにもぜひ、大学の一員として、その試みに参加していただければ嬉しいです。

 そんなわけで、今年もよろしくお願いいたします。

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本年も同朋大学をよろしくお願いいたします。