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2024年度 同朋大学 卒業証書・学位記ならびに修了証書授与式 学長式辞


福田学長 式辞の様子

福田学長 式辞の様子

2024年度卒業式式辞

 2024年度卒業生、修了生のみなさん。おめでとうございます。

 ご家族および関係者のみなさま、お慶び申し上げます。来賓のみなさま、ご多用のなか御列席たまわり、ありがとうございます。

 本日、学部卒業されるみなさんの多くは、4年前の2021年4月に入学されました。前年に流行した新型コロナウイルス感染症の余波により、入学式は、この12階ホールではなく、桜の咲く屋外、青空の下で執り行われました。

 式辞のなかで松田正久前学長が「これからの大学生活で大切にして欲しい3つのこと」をお話しされました。覚えておられる方がいるかも知れません。振り返ってみましょう。

 ひとつ目は「多様性の尊重」。お互いの違いを個性として認め合い、自分の個性を伸ばそう、ということでした。どうでしたか?自分とは違う立場の人、違う意見をもつ人と対話し、理解を深め、扶け合うことはできたでしょうか。

 ふたつ目が「懐疑主義の重要性」。何ごとに対しても「本当かな?」「なぜだろう‏?」と疑い、自分で考え、調べることの勧め。みなさんはメディアの報道や、ネットから流れ出る情報を、そのまま信じ込むのでなく、疑い、自分で調べ、考えることはできましたか?

 そして三つ目が「同朋大学での学び」。このキャンパスを最大限に活用して、充実した学生生活を送ってください、ということでした。人と人との触れ合いがあるこの稲葉地キャンパスで、仲間や先輩後輩、先生や職員のみなさんと、オンラインではない、直接の関係性がつくれたでしょうか。

 気持ちが通じあえた時も、うまく対話できなかった時も、楽しい想い出も、忘れてしまいたい苦い記憶もあると思います。そのすべてのうちに、みなさんがこの大学で過ごしてきたことの意味があります。

 みなさんはここで、人間を学び、人間が作り出してきた歴史や思想や文化を学び、社会を動かしている様々な制度や、システムを学んでこられました。その根底に共通して流れているのが、「同朋和敬」(共なるいのちを生きる)という建学の精神、いのちといのちがつながり、互いに敬い、人々が等しく救われる世界への願いです。

 しかし、みなさんが卒業後に向かう社会は、必ずしも同じ願いのもとに動いているわけではありません。人々の幸せを願うより、時には個人の利益の追求が優先される世の中です。

 みなさんは同朋大学で、困っている人や苦しんでいる人、弱い立場にいる人と、共に歩むことの大切さ、それによってもたらされる心の豊かさを学びました。しかし、そういう価値観は、経済効果や生産性を第一に考える立場からは、切り捨てられてしまいます。現代の世界では、強い者が弱い者を恫喝し、圧し潰すことさえ、時に正義と見なされます。

 ですから、みなさんはこれから社会に出て、失望や挫折を味わうかもしれません。仕事や活動のなかで「自分の努力してきたことは何だったのか。自分の人生に意味はあるのだろうか?」と疑問をいだいてしまう時があるかもしれません。

 そんな時、ぜひ思い出してほしい言葉があります。こんな言葉です「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」(直訳すると「あなたが経験したことを、神は決して奪えない」Was du erlebt, kann dir kein Gott mehr rauben)。本学の正門を出た南の掲示板に掲示しておきました。今日、帰るとき、もう一度大学を振り返って、見ていってください。

 これは19世紀オーストリアの、ロベルト・ハマーリング(Robert Hamerling)という詩人の言葉だそうです。実は私も、どういう人か知りません。私はこの言葉を、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』という本のなかで知りました。戦時中、ナチスによるホロコーストを生き延びたユダヤ人の精神科医が、アウシュヴィッツに連行され、ダッハウ強制収容所に収容されてから、奇跡的に解放されるまでの、苛酷な日々を綴った体験記です。出版後およそ八十年を経た現在も、多くの人々に読み継がれているロングセラーです。

 先の見えない収容所生活に、生きる気力を失い、衰弱死する人や自殺する人が相継いだとき、精神科医として、何か皆の元気が出る話をして欲しい、と居住区の班長から頼まれたフランクルは、先の詩人の言葉を引用しながら、こう語ったそうです。

 わたしは未来について、またありがたいことに未来は未定だということについて、さらには苦渋に満ちた現在について語ったが、それだけでなく、過去についても語った。過去の喜びと、わたしたちの暗い日々を今なお照らしてくれる過去からの光について語った。わたしは詩人の言葉を引用した。

 「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」

 わたしたちが過去の充実した生活のなか、豊かな経験のなかで実現し、心の宝物としていることは、なにもだれも奪えないのだ。そして、わたしたちが経験したことだけでなく、わたしたちがなしたことも、わたしたちが苦しんだことも、すべてはいつでも現実のなかへと救いあげられている。……(中略)……人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある。この存在することの無限の意味は、苦しむことと死ぬことを、苦と死とを含むものだ(フランクル/池田香代子訳『夜と霧』新版 みすず書房, 137-138頁)

 強制収容所の苦しみに満ちた日々も、過去の経験を奪うことはできない、とフランクルは言います。「人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある」勇気ある言葉です。

 私たちの人生は、どんなに努力しても理想の実現にほど遠く、かえって自分の無力さや、愚かさに気づかされるばかりで、もがいているうちに、いつか人生の終わりが来てしまうものなのだと思います。ただ、そうやって自分の限界に気づく、つまり「自分は有限である」と気づくということは、限界のない世界、無限の世界というものに対する認識が、私たちにあるということです。なぜなら「無限」を考えることなしに、「有限」を考えることはできないからです。だからフランクルは、有限であるがゆえの私たちの苦しみや死も「存在することの無限の意味」のなかに含まれる、と言った。そう私は解釈しています。少し話がむずかしいでしょうか。

 先ほど勤行が行われ、「南無阿弥陀仏」と、お念仏を申し上げさせていただきました。「南無阿弥陀仏」の「阿弥陀」とは、もともとサンスクリット(仏教が生まれた古代インドの言葉)で「量りしれない」「無量」「無限」という意味です。「南無阿弥陀仏」と申すことによって、私たちは阿弥陀、つまり無限という真理(阿弥陀如来)に向き合い、その前で、自分が有限であることを自覚します。けれども、そんなふうに阿弥陀と向き合い、「無限がある」と知るからこそ、私たちはこの世界に、有限な人と人とが手をとりあい、いのちが無限につながる社会を紡ぎ出していけるのです。

 仏教学、人文学、社会福祉学、子ども学、心理学、本日それぞれの課程を修め、同朋大学の学位記、修了証を手にしたみなさんすべてのうちに、その精神が宿っています。みなさんは、ひとりの弱者でいることの限界を越え、扶けあい、連帯し、「共なるいのち」(御同朋)として、この生きづらい世の中を生きぬく力を、すでにいただいています。なぜなら、あなたが同朋大学で経験したことは、この世のどんな力も奪えないからです。

 あらためまして、本日は御卒業、御修了おめでとうございます。

2025年3月21日 同朋大学学長 福田 琢
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